いま
海外伝道

召されて
いますか?

ふさわしい
賜物?

賜物の
判断は?

教会の働き?

どんな準備?

将来の計画?

 いま海外伝道

世界中の人々が救いを必要としています。世界中の人々は、キリストの福音を聞かなければなりません。人を救うことができるのは、世界中でキリストただ一人だからです。教会は、キリストによってこの世に遣わされた者です。世界中の人々に、キリストの福音を語り、救いに導きいれるためです。教会だけが、このような宣教の任務を受けています。教会だけが、正しい意味で、福音を伝えることができるのです。教会が福音を語らなければ、誰も正しい福音を聞くことができず、救いを得ようとしているあらゆる人々が、救いに入る機会を失い、永遠に滅んでしまうのです。

 

 教会は世界中で福音を語るべきです。キリストは世界中の人々を愛し、世界中の人々を、等しく救いに入れたいと願っておられるからです。「国内」・「海外」という区別は、あくまでも人間が作った区分けであって、キリストの福音宣教の計画には全く関係がありません。 現在でも、まだ福音が伝えられていない人々が、世界中にたくさんいます。教会はそこに出て行って、福音を伝える任務を負っています。また、たとえ福音が伝えられていたとしても、まだまだ充分でない場合がたくさんあります。

 

 例えば、アジアの人々は西欧の人々が語り伝える福音に、不必要なつまずきを感じています。あまりにもかけ離れた文化が、福音伝道の障害になっているのです。アジア人が福音を伝えると、同じ福音なのに、多くの人が喜んで受け入れることが多いのです。類似した文化が、障害を少なくしているからです。

 

 つい最近までは、宣教は欧米の教会の任務だというのが、誤った常識でした。しかしいまは、世界中の教会が、互いに宣教師を送りあい、現地の教会も含めて、互いに欠点を補い、長所を生かして協力し、いよいよ効果的に宣教の任務を果たしているのです。だから、あなたが連なっている日本の教会も、いまこの宣教の働きに、積極的に参加すべきなのです。

 召されていますか?

 あるクリスチャンたちは、神様が、宣教師になるのにふさわしい性格と、資質と能力をお与えになったのに、「私はお召しを受けていませんので…」といって宣教師になりません。ある人たちは、宣教師として必要な資質も、能力も与えられていないのに、「宣教師の召しを受けた」といって、宣教師になったため、周囲に迷惑をかけ、自分の人生までも、台無しにしてしまいました。どちらも悲劇です。

 

 あなたが、海外宣教のために召されているかどうか、どのようにして知ることができるでしょうか。まず、「自分が海外宣教に召されているかどうか」と問うこと自体が、聖書的に大きな間違いです。新約聖書で、"召し"という言葉の9割方は、"救い"という意味で使われています。一方、現代の"宣教師の召し"に相当するような用法は、ただの一度もありません。ですから、基本的にすべてのクリスチャンが召されているのです。それ以上に"召し"は必要条件ではありえません。

 

 召された一人一人、すなわち救われた者すべては、キリストのみ体である教会にバプタイズされ、教会の構成員になります。そしてこの教会は、共同体として、「海外」・「国内」に問わず、世界宣教の使命を与えられているのです。あなたが"救われたクリスチャン"ならば、教会の一員です。教会の一員ならば、世界宣教をともに担う共同の責任者です。

 

 しかし、すべてのクリスチャンが、宣教師として、海外に出て行くのではありません。自分の生まれ育った土地を一歩も離れないまま、祈りと献金と啓発活動によって支援し、世界の宣教に参加するクリスチャンもいます。日本で福音を語り、牧師・伝道者として働くことは、すでに、世界宣教の一翼を担っていることなのです。

 

 海外宣教師になるべきかどうかは、各々に与えられている賜物によって判断されます。賜物は、用いられる為に与えられたのです。与えられた賜物を、神様の栄光の為に最善に用いるのが、み心にかなった生き方です。ここが大切です。自分に与えられた賜物を最善に生かす道が、宣教師になることならば、宣教師になるのが、み心にかなった生き方です。宣教師に必要な賜物が与えられていないのに、宣教師になるのは、み心を外れた生き方です。

 

 賜物を与えられたものが、その賜物にふさわしい働きに献身する時、神様はその人をたて、任命してくださるのです。使徒パウロや、旧約時代の神の人たちが受けたような特殊な"召し"を一般化して、すべての人に期待するのは間違っています。

 

 では、よく話題にされる"個人的召し"の体験は、どう理解されるべきでしょう? 幻をみるとか、み声を聞くとか言う体験は否定されるべきではありませんが、聖書的教えを超えて強調されるべきでもありません。それは、基本的にすべてのクリスチャンが受けている"召し"を、補強するものであって、それを受けていないことが、"召されていない"事にはならないのです。

 

 神様は、宣教師になるようにと、賜物をお与えになったのに、宣教師の働きに無知、無頓着、無関心な人や、思い迷って決断ができない人、勇気が足りない人に対しては、"個人的召し"をお与えになり、み心どおりに、宣教師としての働きをするように、励まし、押し出してくださるのです。特に、まだ宣教の聖書的理解ができておらず、世界の情報も不足していた時代には、このような方法がぜひ必要でした。残念ながら、いまも、必要としている場合があります。

 ふさわしい賜物?

海外宣教師にふさわしい賜物とは何でしょう?もちろん、宣教師の働きも十人十色。一口に海外といっても千差万別。簡単に、あれだ、これだ、とはいえません。

 

 宣教師と言う言葉は、もともとラテン語で"派遣"を意味する"ミッツオ"から来ましたが、これは基本的に、聖書でいう"使徒"と同じです。なぜなら"使徒"とは、ギリシャ語で"派遣"を意味する"アポステロー"から来た言葉だからです。したがって、宣教師とは使徒的働きをする人のことで、本来、"出て行って、異なる文化の人々に福音を伝え、教会を建て上げる働きをする人"のことをいいます。

 

 海外でこのような働きをするには、まず、国内で牧師・伝道者として働くことができる、充分な資質が必要です。確実な信仰、安定した情緒、正しい聖書理解と伝達能力、人を理解する能力、指導力、組織力が不可欠です。

 

 ただ現在は使徒的働きだけではなく、"異なった文化の中で、福音のために活動するクリスチャン"すべてを、宣教師と呼ぶのが普通です。この中には聖書学校教育や文書伝道、放送伝道、聖書翻訳から、事務、技術、農業指導、医療などに関わる幅広い働き人が含まれ、それぞれの専門分野で、充分な能力が要求されるのが当然です。

 

 次に、海外宣教師はあらゆる面で、高度な適応性、順応性を備えていなければなりません。この能力は、"気候、食物、細菌"などの自然環境に対するものと、"言葉、習慣、考え方"など、人間とその文化に対するものに分けられます。

 

 自然環境に対する適応性の必要度は、働く場所や内容によって異なります。一般に、地方や奥地で働く宣教師、また、使徒的働きに従事する宣教師に、より高度な適応能力が求められます。山と海、太陽と風を楽しむ遊び心、新しいものにはなんでも挑戦する冒険心、すりむいても、ぶつけてもへこたれない肉体、少しくらい臭くなったものでも、不平一つ言わずに栄養にしてしまう消化器官、これらはみな、すばらしい賜物です。

 

 人間と文化に対する適応性も、普通、使徒的働きに従事する宣教師に、より厳しく要求されます。現地の人々とより頻繁に、より直接に接触するためです。風俗、習慣に保守的な田舎で生活する場合は、さらに要求が厳しくなります。とにかく、宣教師になると周囲のものすべてが、自分とは全く異なった人間となるのです。言葉、習慣、食べ物、着物、物の見方、考え方。嗜好、感情表現、価値観。体つきから皮膚の色。日本ではあたりまえだったことが、あたりまえではなく、常識が非常識となります。

 

 この異なった人間に対する"おおらかな態度"。異なっている事実をそのまま受け入れ、それに価値を見出し、それを喜び、それに安んじることができる度量。そういう賜物がなければ宣教師は勤まりません。日本人同士なのに、少々の意見の相違で、すぐ感情的になり、好みが合わないからと、たちまち付き合いを止めるような人は、そのままでは宣教師になるべきではありません。

 

 人は、自分の文化が批判されたり否定されたりすると、まるで自分自身が批判され否定されたかのように感じます。宣教師には自分の文化を絶対視せずに、異なった文化を理解し、その長所を発見して喜び、短所に対して寛容な態度を取る能力が必要です。

 

 もう一つ、海外で絶対必要なものに、コミュニケーションの能力があります。日本人の場合、まず英語を習得しておくべきです。どこの国に行っても、英語を媒体にして現地語を学ぶことになる上、国際的な付き合いは、ほとんど英語でされるためです。言語の習得能力は宣教師の絶対条件ですが、単一言語民族の日本人には苦手です。しかし"案ずるより生むが易し"で、少々英語ができなくても、積極的に海外体験をして、実践で習得するほうが良い場合が多いので、現在英語ができないことは、そのまま、宣教師に向いていないということにはなりません。

 

 コミュニケーションは言葉以上のものです。言葉は現地人よりうまいというのに、コミュニケーションがまったく下手で、満足な働きができなかった宣教師もいます。基本的に"人間が好きだ"と言うことが、言語能力以上に必要な性格です。

 

 こうしてみてくると、宣教師生活には、ストレスがいっぱいです。宣教師になるために、絶対に必要なもう一つの賜物は、このストレスを上手に発散できることです。スポーツでも庭いじりでも、音楽でも、昼寝でも、……時には夫婦喧嘩でも……とにかく、自分を解放する術を心得ていることです。あなたは宣教師になるべきでしょうか?宣教師にふさわしい賜物が与えられているならば、それを最善に用いる為に、宣教師になってください。

 賜物の判断は?

自分に与えられた性質、資質、能力、すなわち賜物が、果たして宣教師としてふさわしいものかどうか、どのようにして判断することができるのでしょうか?

 

 まず自己判断です。ある意味で、自分を一番よく知っているのは自分です。少なくても宣教師の働きと場所についての一般的な情報があれば、自分がそのような働きと、そのような場所での生活に、向いているかどうかは、かなり判断できるものです。

 

 しかし、宣教師になるにしても、ならないにしても、自分ひとりの主観的判断で、決断してはなりません。ある意味で、自分のことを一番知らないのが、自分なのです。自分の判断が正しい判断かどうか、教会全体の、客観的判断を仰ぐべきです。さらに、海外伝道に積極的に関わり、専門的知識を持っている人たち、宣教師や元宣教師などの、実践的体験者の意見を聞くことが大切です。

 

 宣教の働きは、宣教師と言う一個人の働きではなく、キリストのみ体という、共同体の働きですから、宣教師になるかならないかという出発点から、一人の人間の、主観的決断によってではなく、教会全体の取り組みとして、始められるべきです。

 教会の働き?

驚いたことに、教会論と宣教論は、最近になってやっと注目を浴びてきた分野です。特にプロテスタント教会は、聖書的であることを標榜しながら、これらの方面に対する聖書的な学びを、長い間、全く怠ってきました。その結果、西欧個人主義に根ざした主観的な"個人的召し"が極端に強調され、独りよがりな、一匹狼の、冒険主義的宣教師も、たくさん輩出されてきたといういきさつがあります。

 

 しかし、そのような個人主義が、教会にもっとも大切な一致を失わせ、四分五裂をくり返させることになりました。幸い、聖書の学びによって、宣教の働きは、教会という共同体に与えられた使命だということが、明白になったいま、この働き全体が、共同体の働きとして、進められていかなければなりません。

 

 例えば任地と働きにしても、宣教師が勝手に選び、好きなように働くのではなく、その分野の責任を持っている海外伝道部とともに、あらゆる方面の綿密な調査を行い、祈りの中に話し合って決定します。また着任した後も、現地の伝道者、教会、教団との協力はいうに及ばず、他国、他教団からの宣教師達とも、同じキリストのみ体に属するものとして、協力して働きを進めていくのです。いま、宣教師に最も求められている資質は"協調性"です。

 どんな準備?

宣教師になるための準備は、宣教地と働きの種類によって、大きく異なります。しかし、場所と働きを超えて絶対に必要な準備は、強烈鮮明な献身態度を持つこと。"まったき献身"をすることです。

 

 宣教師は、最善最大の宣教師であるキリストの模範に従うものです。キリストはこの世界につかわされるために、完全に自分を放棄し、自己中心の主張、権利の主張は一切なさいませんでした。献身態度のできていない宣教師ほど、厄介で、はた迷惑な代物はありません。

 

 次に、自分の賜物に磨きをかけることです。賜物にしたがって選ぶ働きを、充分になし遂げるためです。すでに述べたように、使徒的働きに従事する宣教師には、国内で牧師・伝道者として働くために必要な訓練のほとんどが必要とされます。また、他のどのような働きをする宣教師でも基本的な聖書・神学の知識と、伝道の実践的能力は欠かせません。

 

 それから言葉の能力です、たとえ絶対必要条件ではないにしても、英語だけは、できるだけ若いうちから、習得しておくべきです。さらに、宣教学もしっかり学んでおくべきです。現時点では、英語が読めなくては、宣教学の学びはかなり困難です。文化人類学、社会学の基本的学びも役立ちます。

 

 精神的方面では、老若男女、貧富、博学無学、有名無名、ありとあらゆる種類の人間と、分け隔てなく付き合う訓練が必要です。自分と同類・同質の人間としか付き合えない人間、差別感覚を持ち込む人間は、宣教師には不向きです。

 

 肉体的な面では、なんでも好き嫌いをせずに、食事を楽しむ能力を鍛え上げることです。以前ほどではなくなったにせよ、現地では日本の食べ物は手に入りにくく、現地の食べ物を好きになる以外に、方法がないのです。我慢して食べられるというだけでは、食事が楽しみではなく、苦痛になります。それはみじめです。

 

 現地の人々にとって、良い宣教師とは、説教ができ、神学の知識が豊かで、指導力があってというような、送り出す側の考えるものとは異なっています。誰とでも差別なしに喜んで付き合い、現地の人々が出す食べ物は、それがたとえ何であっても、一切疑問をさしはさまず、喜んでたくさん食べることができる宣教師です。

 

 宣教師達と長い間付き合って、すっかり"物分りが良くなった"現地の伝道者達は、「たとえ我々と付き合えず、我々の食べ物が食べられなくても、働きさえできればそれでよいではないか」などといいますが、その言葉を真に受けてはなりません。心の中では、そのような宣教師に対し、強い違和感と隔たりを感じ、それが、働きの大きな障害となっているからです。

 

 もちろん、現地の人と完全に同じになることは不可能です。しかし、不可能だからといって努力をしないことが、ますます亀裂を大きくするのです。

 

 最後に、現在の世界は、交通と通信の発達で小さくなっています。宣教師の準備として、ぜひ実行してほしいものに、異文化体験があります。論より証拠。実際に何回も外国に行って、しかも、団体旅行でお決まりのコースを回るのではなく、できるだけ"生の現地"に入り、多くの人々に接し、大いに体験を積み重ねることです。一週間や十日の"通過"ではなく、長期の滞在も試みてみることです。あなたに、海外生活の適応性があれば、つらい経験を含めて、ほとんどの経験が楽しく、愉快で、たくさんのことを学び取ることができたと感じ、「また来たい、もっと来たい」と思うでしょう。文明の発達した欧米諸国へ行くのも、全く無駄ではありませんが、むしろ、発展途上国へ行ってみることです。

 将来の計画?

昔は世界が大きかったため、宣教師には、「生きて再び故郷の土を踏むことはない」という、覚悟が必要だった一方、帰国してからの生活については無頓着でした。しかし、現在は時代が違います。宣教の理解も増しています。宣教地で骨を埋めることが、必ずしも良いことではないのです。

 

 したがって、何歳頃で宣教師になり、何歳くらいで国内に戻り、どのような活動を始めるかということまで、あらかじめ考え、ある程度予測しておくことが肝心です。

 

 一般的に、使徒的働きに従事する宣教師は、現地での長い年季を必要とします。適応性・順応力という点からいっても、できるだけ若いうちに宣教師になるのが望ましい反面、しっかりした学びと経験が求められます。これは二律背反です。したがって、国内での伝道者生活の前に、海外生活を体験しておくとか、海外の聖書学校、神学校で学び、海外で伝道経験をつんでしまうというような、少々変則的なことさえも、考慮しなければなりません。

 

 また、結婚、家族構成、子供の教育、その他もろもろの事に、ある程度の見通しを持っておくことも大切です。

 

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