海外宣教師にふさわしい賜物とは何でしょう?もちろん、宣教師の働きも十人十色。一口に海外といっても千差万別。簡単に、あれだ、これだ、とはいえません。
宣教師と言う言葉は、もともとラテン語で"派遣"を意味する"ミッツオ"から来ましたが、これは基本的に、聖書でいう"使徒"と同じです。なぜなら"使徒"とは、ギリシャ語で"派遣"を意味する"アポステロー"から来た言葉だからです。したがって、宣教師とは使徒的働きをする人のことで、本来、"出て行って、異なる文化の人々に福音を伝え、教会を建て上げる働きをする人"のことをいいます。
海外でこのような働きをするには、まず、国内で牧師・伝道者として働くことができる、充分な資質が必要です。確実な信仰、安定した情緒、正しい聖書理解と伝達能力、人を理解する能力、指導力、組織力が不可欠です。
ただ現在は使徒的働きだけではなく、"異なった文化の中で、福音のために活動するクリスチャン"すべてを、宣教師と呼ぶのが普通です。この中には聖書学校教育や文書伝道、放送伝道、聖書翻訳から、事務、技術、農業指導、医療などに関わる幅広い働き人が含まれ、それぞれの専門分野で、充分な能力が要求されるのが当然です。
次に、海外宣教師はあらゆる面で、高度な適応性、順応性を備えていなければなりません。この能力は、"気候、食物、細菌"などの自然環境に対するものと、"言葉、習慣、考え方"など、人間とその文化に対するものに分けられます。
自然環境に対する適応性の必要度は、働く場所や内容によって異なります。一般に、地方や奥地で働く宣教師、また、使徒的働きに従事する宣教師に、より高度な適応能力が求められます。山と海、太陽と風を楽しむ遊び心、新しいものにはなんでも挑戦する冒険心、すりむいても、ぶつけてもへこたれない肉体、少しくらい臭くなったものでも、不平一つ言わずに栄養にしてしまう消化器官、これらはみな、すばらしい賜物です。
人間と文化に対する適応性も、普通、使徒的働きに従事する宣教師に、より厳しく要求されます。現地の人々とより頻繁に、より直接に接触するためです。風俗、習慣に保守的な田舎で生活する場合は、さらに要求が厳しくなります。とにかく、宣教師になると周囲のものすべてが、自分とは全く異なった人間となるのです。言葉、習慣、食べ物、着物、物の見方、考え方。嗜好、感情表現、価値観。体つきから皮膚の色。日本ではあたりまえだったことが、あたりまえではなく、常識が非常識となります。
この異なった人間に対する"おおらかな態度"。異なっている事実をそのまま受け入れ、それに価値を見出し、それを喜び、それに安んじることができる度量。そういう賜物がなければ宣教師は勤まりません。日本人同士なのに、少々の意見の相違で、すぐ感情的になり、好みが合わないからと、たちまち付き合いを止めるような人は、そのままでは宣教師になるべきではありません。
人は、自分の文化が批判されたり否定されたりすると、まるで自分自身が批判され否定されたかのように感じます。宣教師には自分の文化を絶対視せずに、異なった文化を理解し、その長所を発見して喜び、短所に対して寛容な態度を取る能力が必要です。
もう一つ、海外で絶対必要なものに、コミュニケーションの能力があります。日本人の場合、まず英語を習得しておくべきです。どこの国に行っても、英語を媒体にして現地語を学ぶことになる上、国際的な付き合いは、ほとんど英語でされるためです。言語の習得能力は宣教師の絶対条件ですが、単一言語民族の日本人には苦手です。しかし"案ずるより生むが易し"で、少々英語ができなくても、積極的に海外体験をして、実践で習得するほうが良い場合が多いので、現在英語ができないことは、そのまま、宣教師に向いていないということにはなりません。
コミュニケーションは言葉以上のものです。言葉は現地人よりうまいというのに、コミュニケーションがまったく下手で、満足な働きができなかった宣教師もいます。基本的に"人間が好きだ"と言うことが、言語能力以上に必要な性格です。
こうしてみてくると、宣教師生活には、ストレスがいっぱいです。宣教師になるために、絶対に必要なもう一つの賜物は、このストレスを上手に発散できることです。スポーツでも庭いじりでも、音楽でも、昼寝でも、……時には夫婦喧嘩でも……とにかく、自分を解放する術を心得ていることです。あなたは宣教師になるべきでしょうか?宣教師にふさわしい賜物が与えられているならば、それを最善に用いる為に、宣教師になってください。
|